mrguppのブログ

2005年から始めたMIXIの日記をブログに移植しました。MIXIで使用した画像はうまいこと移動できなかったので後からひとつひとつ貼り付けています。ところどころMIXIならではのおかしな部分が残っていたらご容赦ください。

バンクーバーオリンピックのバイアスロン女子10キロ追い抜きに出場する
鈴木芙由子選手はおじいさんがマタギだったという話を読んで、
ボクは何だか妙に感動してしまった。
スキーだけの選手としては彼女はわりとフツウのレベルだったらしい。

アフリカの広野に生活するひとたちの視力が強力だという話に
近いものなのかな。
広いところで生きると必要に迫られて視力が鍛えられ、
そこに住むひとたちの遺伝子に
そういう記録が代々積み重ねられているからなのだろう。
適性や感覚というものは世代を超えて伝えられるものなのかな。

こつこつと努力を積み重ねてきた成果として
大活躍する選手にも感動させられるけれど、
こういう脈々と受け継がれていく何かという話に、
きっとボクは感じるものがあるのだろうと
自分の妙な感動について考えてみた。
そんなもの感じないよというひともいるだろう。

ボクはこどもの頃から
「一生懸命やってる」と言われるのが好きじゃなかった。
自分がそれを大好きだから寝食忘れてでも打ち込みたいだけなのに、
傍から「あいつは一生懸命にやってる」
と言われるのは何か変だと思っていた。
だいたい好きじゃないものには打ち込めない。

それほどに何かを好きになるきっかけというのは、
ほんとうにひとそれぞれで、
どうすればそれを好きになれるか
という画一的な方法なんて無いような気がする。
それを好きになるひととして生まれてきたかどうか
だと言えるんじゃないかな。
それが何世代もかけて刷り込まれてきたものかどうか?

ひとはそれぞれ自由に生きればいいと思っているけれど、
自分の自由な意思とは別に、
意思よりずっ~と下の奥の深~いところには、
代々脈々と受け継がれてきた抗うことのできない
強くて大きな流れっていうのが存在するんだろうなと思ったりして。
それは運命とは違うもので。

ふとした折に自分のなかの何かがやたらと反応して血が騒いじゃった
っていう経験はみなそれぞれにあるのではないでしょうか。
隣のヤツもいっしょに同じ経験をしているのだけれど、
自分ほど気持ちが騒いでいる様子でないのが
不思議でしょうがなかったりする。
同じなワケがない。
ひとが経験したことや習熟したことなどが、
世代をまたいでわずかずつでも後の世代に
生物としての記憶として残っていくのであれば、
リレーの一選手としてきちんと走らなきゃいけないな。
子育ては現代において大変なことだけれど、
次の世代を育てていくことの意味もあらためて考えさせられちゃった。

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